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島津久光とは?(しまづひさみつ・忠教)薩摩の国父の生涯 子孫に今上天皇 大河「西郷どん」キャストは青木崇高

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島津久光(しまづひさみつ・島津忠教)について、むずかしい言葉をできるだけ使わずに、わかりやすく解説していきます!

2018年NHK大河ドラマ「西郷どん」のキャストは青木崇高さん

 

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島津久光の生い立ち

 

島津久光は、1817年に薩摩藩鹿児島にて生まれます。

父は薩摩藩主・島津斉興、

母は側室(正室ではない妻)のお由羅の方です。

 

島津斉興と正室との間に生まれた島津斉彬が次の藩主になるとされていたため、

島津久光は本来は藩主になる可能性は低く、島津家の家臣の養子に出されるなどしました。

 

幼いころより学問を得意とし、国学に精通していたとされます。

しかし、非常に気性が荒く、

のちに犬猿の仲となる西郷吉之助(隆盛)を島流し先から戻すこととなった際には、

あまりの屈辱にキセルを噛んで歯型がついたとも伝わっています。

 

お由羅騒動で次期藩主争いに

 

しかしながら、次期藩主とされる島津斉彬は、

洋学(西洋文明や技術)に熱心であり、

藩主になったら藩の財政が危うくなると考える者が多かったようです。

 

藩主・島津斉興も同様に考えていたようで、

なかなか藩主の座を島津斉彬に譲ろうとしませんでした。

 

さらに、島津斉彬を藩主にさせたくないと考える者達が、

次の藩主に島津久光を推そうと考えます

 

そのため、次期藩主をめぐって、斉彬派 VS 久光派 に薩摩藩が二分して争うようになります。

島津久光の母・お由羅の方が自分の息子を藩主にしたいと考えたことがきっかけとも噂されたため、

この争いを「お由羅騒動」といいます。

 

そして「お由羅騒動」の末、

島津斉彬が次の藩主となります。

なお、島津斉彬と島津久光は直接仲が悪かったわけではなく、

お由羅騒動後に、島津久光やお由羅の方が処罰されることはありませんでした。

 

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島津斉彬の急死、藩主の父となる

 

しかし、島津斉彬は急病にかかり、そのまま亡くなります。

島津斉彬の遺言により、島津久光の息子・島津茂久が次の藩主となります。

しかしながら島津茂久はまだ若かったため、

島津久光が藩主の父として薩摩藩の権力を握ります。

 

よく勘違いされるのですが、島津久光は「藩主」にはなっていません。

藩主の父として「国父」と呼ばれ、薩摩藩の実質的な権力者として活躍しました。

 

挙兵上洛、西郷吉之助との関係

 

権力を握った島津久光は、

大久保一蔵(利通)有村俊斎(海江田信義)など「精忠組」のメンバーを登用します。

また、大久保一蔵の助言により、

当時、奄美大島に隠れていた西郷吉之助(隆盛)を鹿児島に呼び戻します。

 

そして、島津斉彬の意志を継ぎ、

公武合体(朝廷と幕府を結びつけること)などを実現するために挙兵して京都に上ろうとします。

 

しなしながら、西郷吉之助はその計画を猛反対します。

島津久光は西郷吉之助に「地ごろ(田舎者)」と言われ、激怒したとも伝えられます。

その後も、島津久光と西郷吉之助との関係は悪いままでした。

 

西郷吉之助の反対をよそに、島津久光は計画を決行。

 

そのさなかで、精忠組の過激派たちが不穏な動きを見せたため、

同じく精忠組の者を派遣して説得、そして斬り合いとなる「寺田屋騒動」が起こります。

また、精忠組の過激を鎮めるために命令をやぶった西郷吉之助に島津久光は激怒。

西郷吉之助は、島流しの刑となります。

 

薩摩藩内では犠牲者や処罰される者が出たものの、

結果的に島津久光の当初の目的は成功します。

 

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生麦事件と薩英戦争

 

その後、江戸より東海道を下っている際に、

大名行列を横切ったイギリス人を殺傷する「生麦事件」が起こります。

このことが、薩摩藩とイギリスの間で「薩英戦争」につながります。

 

薩英戦争は、イギリスの軍艦と薩摩藩が大砲で打ち合う戦闘がメインでした。

イギリス側は60名近くの死傷者を出しましたが、

薩摩藩は亡くなったのは1名のみでした。

イギリスは予想以上の苦戦を強いられ、撤退しています。

しかしながら、鹿児島の町は民家を含めて大きな被害を受けてしまいます。

 

 

倒幕へ

 

島津久光は、朝廷会議に有力大名を参加させることで公武合体を推し進めます。

しかし、会議では一橋慶喜と対立

公武合体は断念することとなります。

 

それからしばらく後に、

島津久光は、松平春嶽・山内容堂・伊達宗城ととも「四侯会議」を開きます。

その会議には徳川慶喜(一橋慶喜)も参加していましたが、

ここでも島津久光は徳川慶喜と対立

 

幕府との協力体制はとれないと判断した島津久光は、

武力で幕府を倒すことを決意

さらに朝廷からは討幕の密勅が出され、

薩摩藩はすでに同盟を結んでいた長州藩とともに倒幕に向かっていきます。

 

新政府に批判的となる島津久光

 

薩摩藩は長州藩などとともに倒幕に成功したものの、

島津久光は明治維新後、新政府のやりかたに批判的な立場をとっていました。

新政府の中心的人物となった大久保利通により、新政府への協力を要請するも、断ってしまいます。

 

さらには、廃藩置県には激怒し、一晩中花火を打ち上げるという形で抗議しています。

 

のちに左大臣に任命され東京に行きますが、

実質的な権力はなく、すぐに辞めて鹿児島に戻ってしまいます。

 

西南戦争では中立を表明し、戦闘には関わりませんでした。

その後、1887年(明治20年)に71歳で亡くなっています。

 

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今上天皇は島津久光のご子孫

 

現在の天皇陛下(明仁様)は、

島津久光の子孫にあたります。

島津久光の息子の藩主・島津久茂の娘が、

天皇陛下の祖母です。

つまりは、島津久光は、

天皇陛下の曽曽祖父にあたります。

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