大河ドラマで学ぶ日本の歴史

大河ドラマに出てくる人物などを、むずかしい言葉をできるだけ使わずにわかりやすく解説!

島津斉彬とは?(しまづなりあきら)西郷隆盛や久光との関係とその生涯 大河「西郷どん」キャストは渡辺謙

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島津斉彬(しまづ なりあきら)について、難しい言葉をできるだけ使わずにわかりやすく解説していきます!

2108年NHK大河ドラマ「西郷どん」のキャストは渡辺謙さん

 

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島津斉彬の生い立ち

 

島津斉彬

薩摩藩の第10代藩主・島津斉興の長男として生まれます。

母は周子(弥姫)です。

周子島津斉興の正室(正妻)であり、嫁入り道具に大量の中国の書物を持ち込むなど、非常に賢い人物だったとされます。

 

島津斉彬は、江戸にある薩摩藩邸で生まれ、江戸で育ちます。

そのため、幕府の人物とも接点が多く、

幕府老中の阿部正弘や、水戸藩主・徳川斉昭などとも交流を持つようになります。

特に、阿部正弘は島津斉彬の才能を買っており、非常に信頼していたとされます。

 

島津重豪の影響を受ける島津斉彬

 

島津斉彬は幼いころより、曾祖父にあたる島津重豪非常にかわいがられ、に才能を評価されていました。

島津重豪は、第8代薩摩藩主であり、島津斉興が藩主になってもなお、藩の政治の実権を握っていた人物です。

島津重豪は洋学(西洋の学問や技術)を重視していたため、藩の財政を圧迫したことから「蘭癖大名」と呼ばれていました。

(「蘭」はオランダのことで、つまりは西洋のことです)

 

そんな島津重豪の影響を強く受けた島津斉彬も洋学の知識を身につけていくようになります。

そのため、重豪のように洋学に藩のお金を費やすのではと心配した島津斉興は、

なかなか藩主の座を島津斉彬に渡そうとしませんでした

 

島津斉彬は正室の長男でしたので、次の藩主になるべき人物です。

この時代、次期藩主が大人になったら、藩主を譲るのが普通でしたが、

島津斉興はなかなか譲ろうとせず、

島津斉彬は藩主になれないまま40歳を超えてしまいました

 

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お由羅騒動

 

島津斉彬が藩主になれない中、

薩摩藩では「お由羅騒動」が起こります。

「お由羅騒動」とは、

島津斉興の側室(正室ではない妻)お由羅の方の息子・島津久光を次期藩主にしようとしたお家騒動です。

そのため、もともと次の藩主になる予定だった島津斉彬と対立。

島津斉彬派と島津久光派と、薩摩藩が二分して争うようになります。

 

あるとき、島津斉彬派の者たちが島津久光やお由羅の方を暗殺する計画を立てていると疑われ、

首謀者とされる人物など十数名が切腹となり、

50名近くの島津斉彬派の者たちが島流しや謹慎などの処分を受けました。

この際には、西郷吉之助(隆盛)とも交流があった赤山靱負も切腹、

大久保一蔵(利通)の父・大久保次右衛門(利世)も島流しとなっています。

 

このとき、島津斉彬は鹿児島から逃げ、親戚にあたる福岡藩主黒田斉溥に助けを求めます。

黒田斉溥は幕府の老中・阿部正弘の力を借りようとします。

阿部正弘は、島津斉彬の洋学知識が幕府に必要だと考えており、次の薩摩藩主になってもらいたいと考えていました。

そのため、阿部正弘は将軍の力も借りながら、島津斉興に隠居させることに成功し、

島津斉彬は鹿児島に戻り、やっと藩主になれます。

 

薩摩藩の富国強兵をすすめる島津斉彬

 

やっとの思いで藩主になれた島津斉彬は、

西洋技術を積極的に取り入れ、富国強兵をすすめます。

反射炉(当時最先端の鉄の精錬炉)

ガラスやガス灯

洋式帆船「いろは丸」

西洋式軍艦「昇平丸」

蒸気船「雲行丸」

など、当時の日本では最先端の研究・製造を行っていました。

 

さらに、島津斉彬は、藩の政治に関する意見書を幅広く募集しました。

そのころ、まだ下っ端の役人だった西郷吉之助も多数の意見書を送ったとされます。

それが目に留まり、西郷吉之助は島津斉彬に取り立てられて近くで仕えるようになります。

 

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将軍継嗣問題

 

ペリーの黒船来航によって、

幕府は混乱するようになります。

幕府の中心人物であった阿部正弘は島津斉彬などから意見を求めており、

島津斉彬は、朝廷と幕府をむすびつける「公武合体」が必要だと主張し、

阿部正弘もそれに賛成して公武合体をすすめようとしていました。

 

しかし、阿部正弘が急死。

大老となった井伊直弼と対立するようになります。

島津斉彬らは、次期将軍に一橋慶喜(のちの15代将軍・徳川慶喜)を推していましたが、

井伊直弼らは紀州藩主・徳川慶福を推します。

これが 一橋派 VS 紀州派「将軍継嗣問題」です。

 

島津斉彬は、一橋派に有利になるよう、現将軍の徳川家定篤姫(天璋院)を正室として嫁がせます。

しかしながら、井伊直弼は反対派を弾圧する「安政の大獄」をおこない、

徳川慶福が第14代将軍・徳川家茂となります。

 

島津斉彬たち一橋派は負けてしまう結果となったため、

これに対抗しようと、島津斉彬は、薩摩藩の兵5000人を率いて京都に上る計画を立てます。

しかしながら島津斉彬は、出兵に向けての訓練を視察中に、急に病に倒れます。

 

 

島津斉彬の最期

 

急病で倒れたのち、

一週間ほどで亡くなっています。

死因は、当時日本で流行していたこコレラが有力な説です。

しかし、あまりにも急だったため、

島津久光による陰謀や、

毒殺などの説もあります。

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