大河ドラマで学ぶ日本の歴史

大河ドラマに出てくる人物などを、むずかしい言葉をできるだけ使わずにわかりやすく解説!

西郷吉之助(隆盛)の生涯 その① 誕生から安政の大獄の前まで

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2018年NHK大河ドラマ「西郷どん」の主人公である西郷吉之助(隆盛)

鈴木亮平がキャストを演じるこの人物について、

難しい言葉をできるだけ使わずにわかりやすく解説していきます!

 

※西郷吉之助の解説は非常に長くなるため、記事をいくつかに分けてお伝えします。

 

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西郷吉之助(隆盛)の生まれ

 

西郷吉之助(幼名:小吉)は、

1828年に薩摩国鹿児島城下加治屋町で長男として生まれます。

父は薩摩藩士の西郷吉兵衛、母は西郷満佐子(マサ)です。

 

薩摩藩は人口の4分の1(約25%)が武士でした。

他の藩と比べても武士の割合がずば抜けて高く人数が多いため、

武士の中でも身分の差が激しかったようです。

西郷吉之助の家も、武士ではあったものの身分は低く、

決して豊かな暮らしではありませんでした。

 

郷中の二才頭となり、年下の教育にあたる

 

薩摩藩では、「郷中教育」にて武士の子供は育てられました。

「郷中」は、子供から青年までの男子による教育グループで、

厳しい規則のもと、年上が年下を指導するような仕組みをとっていました。

西郷吉之助も、この郷中で武術や学問、武士の心構えなどを学びます。

剣術は、「チェスト!」という掛け声で有名な示現流を学びました。

 

体格も大きく相撲が強かったとされる西郷吉之助でしたが、

ある日、友人とほかの郷中の者のケンカを仲裁に入ったところ、

刀で右腕の神経を切ってしまいます。

これにより右腕が十分に動かせなくなり、武術で身を立てることはあきらめ、

学問で出世しようと励むようになります。

 

その後、西郷吉之助は二才組(にせこ・いわば郷中の上級生)となり、

さらには二才組のリーダーである「二才頭(にせがしら)」として

年下たちの教育にあたります。

(西郷吉之助は生涯、様々な場面で学問を教えています。このときの二才頭としての経験が活きていたのでしょう)

 

なお、西郷吉之助の郷中では、ほぼ同世代に大久保正助(利通)

年下には大山巌東郷平八郎など、のちに偉人となる人物が学んでいました。

 

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お由羅騒動で島津久光を憎むようになる?

 

18歳になった西郷吉之助は、

郡方書役助(こおりかたかきやくたすけ)という役職に就きます。

これは、役所の農業関係の仕事、というイメージで、

実際に農地に出向くことが多い体力のいる仕事だったとされます。

 

このころ、藩主・島津斉興の後継者争いで、

島津斉彬派と島津久光派が対立する「お由羅騒動」が起こります。

 

この騒動の中で、父・西郷吉兵衛が御用達として出入りしていた赤山靭負(あかやま ゆきえ)が切腹。

西郷吉兵衛が切腹の介錯(切腹時に、苦しみ続けないように首を斬る役目)をしており、

血の付いた肌着を持ち帰り、西郷吉之助に見せて切腹の様子を伝えたとされます。

 

このことにより、赤山靭負を切腹に追い込んだ島津久光やお由羅を憎むようになり、

次期藩主には島津斉彬になってもらいたいと思うようになったとも言われています。

 

後継者争いは、藩主・島津斉興が島津久光の側についていたこともあり、

島津久光が勝利するかと思われたものの、

島津斉彬が幕府の老中・阿部正弘らの協力を得て、

次の藩主となります。

 

島津斉彬に仕え、江戸で学ぶ

 

このころ、西郷家より身分の高い伊集院兼寛の姉・須賀と結婚します。

しかしながらその後、

西郷吉之助の祖父・西郷竜右衛門、父・西郷吉兵衛、母・西郷満佐子が相次いで亡くなります。

 

長男であった西郷吉之助が西郷家を継ぎますが、

少ない給料で妻やたくさんの弟・妹を養わなければならなかたっため、

非常に厳しい暮らしだったとされます。

 

島津斉彬が薩摩藩主になると、

藩の政治に関する意見書を広く藩士たちに求めるようになります。

西郷吉之助はこれを大いに喜び、

多数の意見書を島津斉彬に送ったとされます。

それらの意見が島津斉彬の目が留まり薩摩藩の将来を担う人材として期待され

江戸に向かう島津斉彬のそばに仕えるようになります。

 

そのときの役職は「御庭方役」という、いわば庭の手入れをする仕事でした。

しかし、これは建前であったといわれており、

低い身分の西郷吉之助を藩主の近くに置くのは難しかったため、

庭に入り込める仕事を与えることで、

自分の近くで学び働いてほしいという島津斉彬の考えがあったようです。

 

江戸では、島津斉彬から直接教えを受けるだけでなく、

水戸学の有名な学者である藤田東湖からも学ぶことができ、

尊王学の知識も身に付けていくこととなります。

 

また、島津斉彬の命令で、

水戸藩の徳川斉昭に密書を届けるなど、

重要人物たちとの接点もできてきます。

 

そして、

島津斉彬は次期将軍を一橋慶喜(のちの15代将軍・徳川慶喜)とするため、

現将軍・徳川家定に自分の養子である於一(篤姫)を嫁がせます。

その際も西郷吉之助が尽力したとされ、

薩摩藩や島津斉彬にとってなくてはならない存在となっていきます。

 

江戸でのそんな活躍の一方、

鹿児島の西郷家での貧しい暮らしを見かねた須賀の実家が、

須賀を連れ戻してしまい、西郷吉之助は離婚することとなります。

 

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将軍継嗣問題と島津斉彬の死

 

於一(篤姫)を徳川家定に嫁がせたものの、家定は病気が悪化。

次期将軍の決定が急がれました。

 

島津斉彬は、一橋慶喜を推していましたが、

紀州藩徳川慶福を推す勢力が強くなります。

紀州派の工作により、井伊直弼を幕府の大老に就任させ、

半ば強引に次期将軍を徳川慶福に決定し、14代将軍徳川家茂となります。

 

さらに井伊直弼は、朝廷の許しを得ずに勝手にアメリカと「日米修好通商条約」を結びます。

 

このような井伊直弼の横暴を止めるため、島津斉彬はある計画を準備します。

兵を率いて京都に入り、朝廷より幕政改革の勅許(朝廷の命令)を得て、

幕府や井伊直弼のやり方を改めさせるというものでした。

 

しかしながら、島津斉彬はそれから間もなく急死。

この計画は実行されませんでした。

 

島津斉彬の死は西郷吉之助は大きなショックを与え、

殉死(主君を追って死ぬこと)を考えたとも言われています。

西郷吉之助(隆盛)の生涯 その② 安政の大獄から島津久光の挙兵上京まで

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