大河ドラマで学ぶ日本の歴史

大河ドラマに出てくる人物などを、むずかしい言葉をできるだけ使わずにわかりやすく解説!

嘉納治五郎(かのう じごろう)の経歴・生涯をわかりやすく解説!金栗四三との関係 講道館柔道の創始者 大河ドラマ「いだてん」キャストは役所広司

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2019年NHK大河ドラマ「いだてん~東京オリムピック噺~」に登場する

嘉納治五郎(かのう じごろう)の経歴・生涯について、

むずかしい言葉をできるだけ使わずに、わかりやすく解説していきます!

(嘉納治五郎役キャストは役所広司)

 

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嘉納治五郎(かのう じごろう)の生い立ち

嘉納治五郎(かのう じごろう)は、

1860年に現在の兵庫県神戸市東灘区御影町にて生まれました。

 

嘉納家は御影の名家であり、

嘉納一族は、

菊正宗酒造白鶴酒造などの経営を江戸時代から行っています。

 

祖父の嘉納治作は酒造や廻船で財を成しており、

幕末、外国の脅威に備えるために神戸に砲台を建設する際には、

勝海舟が設計した砲台建設を嘉納治作が請け負っています。

 

また、父の治郎作は、

明治政府に起用されるほどの人物でした。

 

そんな名門で生まれた嘉納治五郎は、

明治維新後に父と共に東京に上って学んだ後

神戸に戻って育英義塾(現在の育英高校)に入ります。

 

勉学に秀でていた嘉納治五郎でしたが、

身体は弱く、まわりからいじめられていました。

 

柔術を学ぶ

嘉納治五郎は官立開成学校(東京大学)に入学。

 

身体が弱いことで悔しい思いをしてきたため、

身体を鍛えたいと考えるようになります。

 

そのとき、目を付けたのが、

力が弱い者・体が小さい者でも、大きく力が強い者に勝てるという「柔術」でした。

 

明治維新後の日本では、西洋文化を取り入れることを重視していたため、

江戸時代からの武術などが廃れてしまうことが多く、

そのころ、柔術を行う道場も少なくなっていました。

 

嘉納治五郎はやっとのことで、

天神真楊流福田八之助に入門。

修行に励みます。

 

1879年(明治12年)に、

第18代アメリカ大統領グラントが来日した際には、

嘉納治五郎が柔術を披露しました。

 

福田八之助が亡くなった後、

更なる修行のため、

他の流派にも弟子入りしています。

 

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講道館柔道を創始

嘉納治五郎は

1882年(明治15年)には学習院の教師として働き始めます。

 

そのころより、

自分自身が柔術によって身体だけでなく精神も鍛えられた経験をもとに

人間形成を目指す武道として「柔道」を作り上げていきます。

 

自らの道場「講道館」をひらき、

弟子たちの指導にあたりました。

 

ここから、

現在に続く「講道館柔道」が始まります。

 

柔道はのちに

全国の旧制中学の必修科目に採用されます。

また、海外でも高い評価を受け、

世界中で柔道を学ぶ人たちが増えていきます。

 

金栗四三との出会い

1893年(明治26年)

嘉納治五郎は東京高等師範学校(現在の筑波大学)の校長となり、

学問だけでなく、体育教育の向上にも努めます。

 

このころ、

校内のマラソン大会で入賞した金栗四三と出会います。

 

また、1909年(明治42年)には、

アジア初のIOC(国際オリンピック)委員となっています。

 

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ストックホルム五輪へ

IOC委員となった嘉納治五郎は、

日本人選手の1912年ストックホルム五輪出場に向けて尽力。

 

ストックホルム五輪(スウェーデン)では、

マラソンの金栗四三や短距離の三島弥彦が出場し、

嘉納治五郎は団長としてストックホルムに同行しました。

 

しかし、

金栗四三・三島弥彦ともに途中で棄権。

メダル獲得には至りませんでした。

 

1940年東京オリンピック招致に成功、しかし

ストックホルム五輪以降もIOC委員を務めていた嘉納治五郎は、

東京でのオリンピック開催を目指して活動を続けます。

 

しかしながら、そのころの日本は

1931年の満州事変以降、国際的な非難を浴びており、

1933年には国際連盟を脱退していました。

 

そのため、東京への招致は非常に困難なものでしたが

嘉納治五郎の尽力の甲斐あって

1936年(昭和11年)のIOC総会では

1940年(昭和15年)の東京オリンピック招致に成功します。

 

しかし、

1937年には盧溝橋事件をきっかけとして日中戦争が始まります。

 

国内では、オリンピックよりも戦争を優先するべきという意見が強くなり、

外国でも、東京での開催を疑問視する声が高まっていました。

 

カイロからの帰国途上、死去

1940年東京オリンピック開催が危ぶまれる中、

嘉納治五郎は1938年、IOC総会が行われるカイロ(エジプト)へ向かいます。

 

東京での開催に批判的な意見がある中で、

嘉納治五郎はなんとか1940年の東京開催を守り抜きます。

 

しかし、カイロからの帰国途上、

船の中で肺炎で亡くなりました(享年77)

 

嘉納治五郎が守り抜いた1940年東京五輪ですが、

嘉納治五郎が亡くなった2か月後に、

日本政府が開催返上を決定してしまいます。

 

東京の代わりにヘルシンキ(フィンランド)で開催されることになるものの、

1939年第二次世界大戦の勃発により、ヘルシンキ五輪も中止に。

1940年はオリンピックが開催されませんでした。

 

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1964年東京オリンピックで柔道が正式種目に

幻と消えた1940年東京オリンピックでしたが、

嘉納治五郎の意志は田畑政治らが受け継ぎ、

終戦より約20年後の1964年に開催することに成功します。

 

また、1964年東京オリンピックでは、

嘉納治五郎が創始した柔道も正式種目に。

 

嘉納治五郎の悲願が達成されることとなるのです。

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