大河ドラマで学ぶ日本の歴史

大河ドラマに出てくる人物などを、むずかしい言葉をできるだけ使わずにわかりやすく解説!

一橋慶喜(徳川慶喜 ひとつばしよしのぶ)の生涯 西郷隆盛(吉之助)との関係 大河ドラマ「西郷どん」ではヒー様と呼ばれ登場 キャストは松田翔太

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2018年NHK大河ドラマ「西郷どん」に登場する

「ヒー様」こと一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ 徳川慶喜)の生涯を

むずかしい言葉をできるだけ使わずにわかりやすく解説していきます!

(キャストは松田翔太さん)

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一橋慶喜の生い立ち

一橋慶喜は1837年に生まれます。

1828年生まれの西郷隆盛の約9歳年下です。

幼名は松平七郎麻呂。

 

父は水戸藩の第9代藩主・徳川斉昭で、

子供時代は水戸にて暮らします。

10歳になるころ、御三卿のひとつ・一橋家を継ぐことになり、

「慶喜」の名前をもらい「一橋慶喜」となります。

 

将軍継嗣問題

一橋慶喜が大人になるころ、

幕府は黒船来航で混乱していました。

 

1853年には第12代将軍・徳川家慶が病死。

第13代将軍となった徳川家定は病弱だったため子供が産めないと考えられたため、

次の将軍をめぐって幕府内が対立するようになります。

 

そこで候補に挙がったのが、一橋慶喜でした。

もう一人候補になったのが、紀州藩主徳川慶福

この2人の将軍候補をめぐって対立します。

世にいう「将軍継嗣問題」です。

(一橋慶喜自身は、将軍になりたいとは思っていない旨の手紙を父・徳川斉昭に出すなど、

あまり乗り気ではなかったことがうかがえます)

 

一橋慶喜を推す「一橋派」には、徳川斉昭島津斉彬(薩摩藩主)・松平慶永(福井藩主)

徳川慶福を推す「南紀派」には、井伊直弼(彦根藩主)・本寿院(徳川家定の母)

などがつきました。

 

なお、このころ西郷吉之助(隆盛)は、島津斉彬のもとで、一橋派として一橋慶喜を将軍にするよう尽力しています。

 

しかしながら、阿部正弘島津斉彬が急死。

一橋派の力は衰えていきます。

そして、井伊直弼大老となり、

徳川慶福を、第14代将軍・徳川家茂とします。

 

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安政の大獄

大老となった井伊直弼は、

反対する者を次々に弾圧していきます。

世にいう「安政の大獄」です。

 

将軍継嗣問題で井伊直弼と対立していた一橋派の者たちも弾圧の対象となり、

一橋慶喜も謹慎となります。

 

しかし、その後、井伊直弼は「桜田門外の変」で暗殺され、

一橋慶喜は謹慎を解かれます。

 

朝廷や島津久光との関係

島津斉彬の死後、薩摩藩の実権を握った島津久光は、

兵を率いて上京し勅命を得て、幕府への影響力を持ちます。

そして、一橋慶喜将軍後見職に任命させることに成功します。

(同時に、福井藩主・松平春嶽政事総裁職となります)

 

そのころ、朝廷では攘夷(外国を武力で追い払うこと)の考えが強まっており

攘夷実行に向けて協議を行うため、将軍・徳川家茂が上洛することとなります。

その際に、一橋慶喜は先行して上洛し、朝廷との協議にあたります。

 

このとき、一橋慶喜は朝廷に対し、

攘夷実行を含めて、幕府に政治を全て任せる

もしくは

幕府が朝廷に政権を返上し、朝廷が攘夷を実行する

という二者択一を迫りました。

 

これに対し朝廷は、

これまで通り政治は幕府に任せるが、朝廷から諸藩に直接命令することもありえる

という回答を出し、幕府は攘夷実行を命令される形となります。

これに対し、一橋慶喜は、攘夷実行を受け入れる姿勢を見せます。

表向きは受け入れたものの、一橋慶喜派将軍・徳川家茂は風邪だと言って仮病を使い、

天皇に会わせないようにするなど、攘夷実行をやんわり避けようとしていたとされます。

 

しかしながら、攘夷実行を受け入れた一橋慶喜に対して、幕府内での批判が高まり、

島津久光松平春嶽らと対立することとなります。

 

そ、一橋慶喜は将軍後見職を辞職し、

京都御所を守る「禁裏御守衛総督」に任命されます。

禁門の変では御所守備軍を指揮し、戦場で戦っています。

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 15代将軍となる一橋慶喜

一橋慶喜は、長州征伐の勅命を得て、第二次長州征伐を実行しようとします。

しかし、そのころ、長州藩はすでに薩摩藩と薩長同盟を結んでおり、

薩摩藩は出兵を拒否し、ひそかに長州藩の味方となります。

そのため、幕府軍は負け続けてしまい、

さらには自ら出陣しようとしていた14代将軍・徳川家茂が大坂城にて急死

一橋慶喜は長州藩と、休戦協定を結びます。

 

その後、一橋慶喜は、次の将軍になるよう推薦されましたが、

固く辞退しました。

その後も将軍職につくことは拒み続けましたが、

徳川家茂の死後の約半年に引き受け、

15代将軍・徳川慶喜となります。

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大政奉還

薩摩藩と長州藩が倒幕に進もうとしていることを察した徳川慶喜は、

これまで幕府が預かっていた政権を朝廷に返上することにしました。

これが「大政奉還」です。

薩長に倒される前に政権を返し、列侯会議(有力大名などからなる会議)の中心となることで、

徳川家を権力を存続させる狙いがあったとされます。

 

しかしながら、大政奉還の直後に薩摩藩などにより「王政復古」がなされ、新政府樹立が宣言されます。

その後、薩摩藩との対立が激化し、鳥羽・伏見の戦いとなります。

 

戊辰戦争

鳥羽・伏見の戦いでは戦況が不利になると、徳川慶喜は大坂城から脱出し、船に乗って江戸に帰ってしまいます

そして、朝敵(朝廷の敵)として追討令が出され、新政府軍が江戸に向かってくるようになります。

 

新政府軍による江戸総攻撃が行なわれようとする直前に、

新政府軍を率いていた西郷隆盛は、幕府側の勝海舟と交渉にあたります。

その結果、武力を用いることなく、江戸城が明け渡されました。

これが「江戸無血開城」です。

このとき、徳川慶喜の命は助けられ、水戸に謹慎となります。

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その後の徳川慶喜

水戸に謹慎となった徳川慶喜は、

1869年に戊辰戦争が終わると謹慎が解かれ、

静岡に移住します。

 

多くの手当金をもらっており、

写真・狩猟・投網・囲碁・謡曲などの趣味に没頭して余生を過ごしていました。

静岡の人々からは「ケイキ様」と呼ばれて親しまれていたようです。

 

政治的な野心は全く持たず、旧幕臣ともほとんど会いませんでした。

そして、1913年に77歳で亡くなります。

明治維新から45年後のことでした。

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