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西郷吉之助(隆盛)の生涯 その② 安政の大獄から島津久光の挙兵上京まで

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2018年NHK大河ドラマ「西郷どん」の主人公である西郷吉之助(隆盛)

鈴木亮平がキャストを演じるこの人物について、

難しい言葉をできるだけ使わずにわかりやすく解説していきます!

 

※西郷吉之助の解説は非常に長くなるため、記事をいくつかに分けてお伝えします。

西郷吉之助(隆盛)の生涯 その① 誕生から安政の大獄の前まで

 

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安政の大獄、そして月照との入水

 

強く慕っていた薩摩藩主・島津斉彬が急死し、

殉死(主君を追って死ぬこと)を考えていた西郷吉之助を説得した人物がいました。

それは、月照

尊王攘夷の考えを持っている清水寺の僧侶であり、

さきの将軍継嗣問題のときには一橋慶喜を将軍にするため、

朝廷と薩摩藩の橋渡し役を務めていて、西郷吉之助との関係も深い人物でした。

 

それからも、井伊直弼の横暴はさらに増していきます。

自分や幕府の考えに反対する大名たちを謹慎処分、

尊王攘夷論を持って幕府を批判する者を次々と処刑していきました。

 

世に言う「安政の大獄」の始まりです。

 

尊王攘夷派である月照の身にも危険が迫ります。

西郷吉之助は月照を助けるために、

共に京都を脱出して薩摩へ連れて帰ります。

 

しかしながら、薩摩藩にとって、

月照をかくまうことは幕府ににらまれる可能性のあるリスクの高いことだったため、

薩摩藩は月照に対して「日向国へ国外追放」としました。

薩摩藩の考えは、連れて行く途中で月照を斬るというものであり、それに西郷吉之助も同行していました。

絶望した月照は、船で移動している際に海へ身を投げます、それに西郷吉之助も続きます。

 

月照はそのまま亡くなります。

西郷吉之助は助けられたものの、

その後しばらくは自ら命を絶つ危険性が高く、

家族は西郷吉之助から刃物を遠ざけていたといわれています。

 

奄美大島に送られ、愛加那を妻に

 

追われる月照を助けた西郷吉之助も、幕府から追われる身となっていました。

入水からは助かったものの、薩摩藩より身を隠すように命じられます。

行き先は、鹿児島の南にある奄美大島でした。

 

この奄美大島行きは、遠島(島流し)の刑のようなものではなく、

あくまで身を隠すことが目的であったため、

藩からは扶持米(給料)も出ていましたし、

鹿児島との手紙のやり取りも許されていました。

島では菊池源吾と名乗ります。

 

当初、島民たちは「流罪人」だと考え、

さらには西郷吉之助も大声で木刀を振り回すなどの行動を取っていたため、

島民にはなじめずにいたとされています。

 

その後、薩摩藩が奄美大島の人々を奴隷のように扱いサトウキビを栽培させていことを知り、

西郷吉之助は薩摩藩の役人へ改善を求めるなど、島民を救おうとしました。

さらには島の子供たちに学問を教えるなど、

しだいに島民から慕われるようになっていきます。

 

そのころ、西郷吉之助は奄美大島の名家である龍家(田畑家)の世話になっていました。

その龍家の娘・愛加那と恋におち、結婚することになります。

愛加那との間に長男・西郷菊次郎が誕生し、

つづけて西郷菊子を身ごもります。

 

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大久保利通の計らいにより、鹿児島に戻る

 

薩摩藩では島津忠義が藩主となっていました。

しかし島津忠義はまだ幼かったため、島津久光が後見として権力を握っていました

 

さらには井伊直弼が「桜田門外の変」で暗殺され、幕府の力が弱まっていました。

島津久光はこれを機に

島津斉彬が考えていた「兵を率いて京都に行き、朝廷より勅許を得る」を実行することで

幕府への影響力を高めようと考えていました。

大久保利通は「計画実行のためには、以前斉彬のもとで計画に関わっていた西郷吉之助の力が必要」と進言し、

西郷吉之助の帰還のために尽力し、島津久光の許しを得ます。

 

そして、西郷菊子を身ごもったころに、

西郷吉之助のもとに鹿児島に戻るよう命令が下ります。

 

薩摩藩には「島妻制度」というものがあり、

島でできた妻は鹿児島には連れて帰れませんでした。

そのため、愛加那とは泣く泣く別れることとなります。

 

 

島津久光を怒らせ、遠島(島流し)となる

 

西郷吉之助は鹿児島に戻り、薩摩藩の政治に復帰したものの、

その言動は大久保利通の予想とは反するものでした。

 

京都への挙兵計画に関しては「以前とは状況が違い過ぎる」として反対、

さらには島津久光にたいして「御前ニハ恐レナガラ地ゴロ(恐れながらあなた様は田舎者です)」と言ったとされます。

 

この発言の裏には、

島津斉彬は江戸で育ち、幕府や朝廷などの重要人物ともつながりがあったのに対して

島津久光は鹿児島育ちで人脈もそこまでないため、

今、斉彬がやろうとしていたことを久光がやってもうまくいかない、

という意図があったとも考えられますが、

島津久光にとっては腹立たしいものであったことでしょう。

 

また、西郷吉之助は、お由羅事件の記憶から、

島津久光への嫌悪感を持っていたのかもしれません。

 

とにもかくにも、これから長年にわたって

西郷吉之助と島津久光の関係は悪いままでした。

 

西郷吉之助の反対をよそに、島津久光は京都への挙兵を決行します

西郷吉之助は、村田新八らとともに、島津久光より3日早く出発。

「下関にて待て」という命令を受けていました。

 

しかし、そのころ大坂・京都では、

島津久光の挙兵を「幕府を倒すため」と勘違いした尊王攘夷派の浪人・志士たちが

「今こそ幕府を倒すとき!」とばかりに集結していました

島津久光が幕府を倒そうとしているわけではないことを理解していた西郷吉之助はこの騒ぎを危険に思い、

「下関で待て」という命令に背いて大坂に向かって、

尊王攘夷派の者達を鎮めようとします。

 

しかし、島津久光には命令に背いたという情報だけでなく、

「西郷吉之助が大坂で尊王攘夷派の者達をあおっている」有村俊斎(海江田信義)が報告したため、

島津久光は激怒、西郷吉之助や村田新八を捕らえるよう命令を出します。

 

またそのころ、京都では過激な尊王攘夷派の薩摩藩士たちが

島津久光の命令により討たれ、捕まるなどしていまします。

これを「寺田屋騒動」といいます。

 

西郷吉之助・村田新八は捕らえられ、

西郷吉之助は徳之島へ、

村田新八はさらに厳しいとされる鬼界島(喜界島)への遠島(島流し)の刑となります。

 

 

島津久光による京都への挙兵は、

予想をはるかに超えた騒動となってしまいましたが、

朝廷により幕府の改革の勅令を得ることができ、

島津久光や薩摩藩の幕府への影響力を高める結果となり、

当初の目的は成功したと考えていいでしょう。

西郷吉之助(隆盛)の生涯 その① 誕生から安政の大獄の前まで

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